昭和42年08月05日 夜の御理解
朝の御理解の後で御座いましたけれども、遠隔からお参りされる親子連れのご信者さんが御座いましたが、そのお父さんの方が、本当に人間的に生身を持っているものですから、本当さもあろう、苦しくもあろうと思う問題で御座いますけれども。その事の為に、落ち込んでわざわざ何十里の道を( ? )参って見えられますのですけれども、それがもう何時でも、同じ問題で同じ所を、繰り返し繰り返しお伺いされるのです。
あなたが一人ここの所を辛抱し抜かして頂いたら、家族中でなく、その人達まで助かるのですから、その為自分の仕事にも手がつかんと言われる。それも何時も同じ事を言われる。夕べも泊まられたのですが、休まれるまでその事を、繰り返し繰り返し何べんも、何べんもお伺いに見えるのです。しかし神様はそのたんびにそうですかとがってんが行く様に御理解下さるのですね。
ところが今日その事を帰りがけにお伺いされました。そしたら神様御神眼に、蘭の花。枯れた様な蘭を頂くのですね。所謂、死んでいる蘭です。私は判じもん、のごたるけれども、神様にそのお伺いに対して、もう知らんと仰ると思ったのですね。枯れた蘭ですから死んだ蘭ですから。もう神様の方が知らんといいなさる。皆さんでももうせからしか。お父さんはもう知らんと子供達に対して。
同じ事を繰り返し言う時は、もう知らんと言いたい時がありますでしょう。お互いの信心上の事であんまり、繰り返し繰り返しそこの所が分からんで、やっぱり自分の身可愛さに、そこの所をまあまあ言うなら、ひつこく申しましょうか。身楽の為にその所を願って行くという様な事では、神様から知らんと言われたらそれまで。けれども私はその時、私は教導の素晴らしいというのを感じたのですけれども。
もう今日は今までかってない神様のお知らせを頂きましたよと。ここでもし言葉に変えるならば、あの神様知らんと仰っているのではないでしょうかね、と言ってお話しましたら、恐れ入りました。分かり切った事をお伺いして、分かりましたと言って今日は帰られたね。ですからね、私共が神様から知らんと言われてなお、繰り返しておると、いよいよ本当に神様から知らんと。
向こう向かれたらしまい。けれど今日は、知らんと仰ったのは、神様知らんとお返事下さった事によって、こちら分かり切った事を、お伺いしていた。分かりました。恐れ入りました。と言うて帰られたのです。けれども、そうです。私どもが本当に神様から知らんと言われている。けれども聞く耳もたんものですから、それを繰り返し繰り返し続けている事がなかろうか。
私は壮年部会の上に、特にいよいよ、そういう事がありはせんだろうか。こんな事、御粗末、御無礼な事分かっている。神様にすかれん事が分かっておる。分かっておる事を繰り返しておる。そして、それを詫びておる。詫びれば許すという親心を、おっしゃっているけれども、詫びるという事には必ず、もう二度としませんからと言った様な、お詫びが伴って始めて。
詫びれば許してやるという、働きがあるのですよ。それを繰り返し繰り返ししていたのでは。仏の顔も三度と申しますけれども。十ぺん、二十ぺんは、神様がそれを黙って聞いて下さいましょうけれども、あまりそれが重なると知らんと神様がおっしゃる取り返しがつかん。おかげが受けられん様になると私は思う。その方だけではありません。お互いが信心生活の上にも。
その様な事がありはしないだろうか。本当に神様から知らんと言われて。はあ恐れ入りましたと、分かればまだいいのです。それでも分からず、言わば繰り返しておりますと、私は矢張りおかげになって来ないという感じがします。銘々の上にも神様にお詫びさして頂いて、繰り返しお詫びして神様から、知らんとこう受け付けておられない様な所がありはしないだろうか検討してみたいですね。
どうぞ。